天才、ふつう、ブラームス

自分て、なんでこんなにおもしろくない人間なんだろう、と思うときがあります。

そのことで、軽く落ち込んだりして。



その前提にあるのは、「自分はおもしろい人間だ(のはずだ)」ということですよね。

その前提自体が間違っている可能性については、なかなか考えが及びません。

べつに自己否定しているわけではありません。



今日、仕事で「ブラームス」を調べていたとき、ある文章を見つけたのですが、

以下のようなことが書かれていました。

ブラームスは天才ではなかった。

彼は新しいことをしようとせずに、保守的に曲を作りながら、

私たちが今聴くことのできるクラシック音楽というジャンルの音楽を、

クラシック音楽というジャンルに定義して、そのクラシック音楽を今私たちが聴いている、

みたいなことが書いてありました。

意味わかりますか?(なんだこの説明は・・・)



コンサートホールがあって、オーケストラがあって、クラシックの曲があって、

クラシックコンサートが成り立って、それをお客さんが席に座って聴く。

そういう行為を、「クラシックを聴く」という楽しみとして現代に引き継ぐ基礎を作ったひと。

それがブラームスです。

そんな彼が、「保守的」で「新しさ」を求めず、天才でなかったというのです。

(ちなみに、ブラームスはバッハ、ベートーヴェンの次にくるクラシックの三大Bの一人です。)

言い方はよくありませんが、クラシック音楽が「堅苦しく」「古典的」で「面白みに欠ける」、

そういうイメージを作るのに貢献した人とも言えるのかも。



それでも不思議なことに、オーケストラプレイヤーはブラームスを演奏することが大好きです。

この大好きはもちろん、ホットケーキが大好きですの「大好き」とはちょっと意味が違います。

聖書を読み解くのが大好きです、っていうのに近いのかも。



とにかく、「自分っておもしろくない人だな」と思うことがある私のような人にとっては、

ブラームスの存在は、ある意味「光」であり「真実」であり「リアル」なのだと思いました。

みんながモーツァルトだったら世の中浮かれっぱなしだし、

みんながベートーヴェンなら世の中暑苦しいし、

みんながマーラーなら多分そのうち疲れます。

ということで、「おもしろい」なんてのは幻想で、

ふつうの人にとっては、「おもしろくない」ことから全ては始まる。



ブラームスの魅力が少しづつわかっていくうちに、

彼の演奏曲のときだけ寝てしまう習性も、いつの日かなくなるのでしょうか。



最後に、これを書かないと多分怒られるからあえて書きますが、

ブラームスが天才でなかったということと、

わたしが天才でない、ということは決定的に意味が違います。念のため。



参考:天才とは何だ?〜ブラームス型凡楽のすすめ

この方のブラームス論、なかなかおもしろいです。